ユニチカ記念館へようこそ

COURT SIDE


ユニチカの本籍地・兵庫県尼崎にあるユニチカ記念館。
そこにあるたくさんの資料のうち、バレーボールコーナーを紹介します。

【概要】
昭和44年に「ニチボー」「日本レイヨン」が合併。
United(合併)NITI(両社に共通するニチ)KA(会社・株式会社)を語源にユニチカとなる。
ユニチカ記念館はニチボー(大日本紡績)の前身尼崎紡績が、操業当時、工場の総務事務所として使用していた建物を使っており、当時の日本の歴史を感じることができます。そして、今もユニチカのあらゆる資料が保管されている大切な場所です。
尼崎市も市のPRのなかで、歴史資料館のひとつとして紹介しているようです。

【バレーボール関連資料】:大阪ドームにも近々展示?


中西千枝子選手のユニフォーム


たくさんのトロフィーは一部アメリカに

故大松氏が東京五輪で着たブレザー

東京五輪で世界一の座に

▼ユニチカ貝塚事業所の資料館へ▼

 

【大松氏・アメリカスポーツ殿堂入り】

バレーボール発祥の地、アメリカにあるスポーツ記念館に、故大松氏が殿堂入りしました。ユニチカ記念館からも東京五輪時代の資料を貸し出しています。また、大阪ドームにも資料の展示が検討されているそうで、ニチボー・ユニチカがいかに大阪に愛されたバレーボールチームであったかが伺えます。

東洋の魔女の活躍】

1961年、この年の8月から約2ヵ月間にわたって、ヨーロッパに遠征した日本のスポーツチームがあった。それが、大松博文を監督とする女子バレーボールの日紡貝塚チームでした。
その戦績は、24戦して無敗。あまりの強さに、欧州のマスコミが「東洋の魔女たち」という畏れと尊敬をこめたニックネームを捧げました。外国選手にくらべて体格的に劣る日本女子を、大松監督が、豊富な練習量と、そして「拾って拾って拾いまくる」守備主体の戦法によって世界に通用するレベルに仕上げたのです。
チームメンバーに対して、ひたすら「俺について来い」として指導したという彼の言葉は、後年、流行語にもなった。1964年の東京オリンピックで、日本中を感動させた金メダルチームというのは、ほぼ、このときの「東洋の魔女」日紡貝塚のメンバーです。
また、ユニチカ(日紡貝塚)の連勝記録は、8年間で258連勝。1967年から始まった日本リーグでは、第3回大会で初優勝しその後3連覇、79・80年連覇。
1995年にVリーグ創設、ニックネームを手塚治虫氏(故人)から不死鳥「フェニックス」を命名し、第2回Vリーグで優勝。全日本黒鷲旗大会では18回の最多優勝記録を更新しました。

【バレーボールの起源はアメリカ】

1895年、アメリカのYMCAでW.G.モーガンという人が、バレー ボールを発明しました。当時のアメリカではインドアスポーツと して、バスケットボールが大流行していたのですが、
●接触プ レーが多いため怪我をしやすい
●中高年や女性には運動量が多 すぎる。
という理由で、誰でも気軽に楽しめるスポーツ種目が必 要だということになり、必然に迫られて、W.G.モーガンがバレー ボールを考え出したのです。