フェッラーラ FERRARA
|
中世初期に成立した比較的新しい市であり、成立の起源や時期については不明である。ローマ帝国時代にこの周辺地域の中心都市であったヴォゲンツァ市 Voghenza の衰退の後に、ビザンティン帝国の城塞と、当時は現在の市中を貫いていたポー河本流の水運を核として形成されたものと考えられている。市名は753年のランゴバルドの資料に初出し、1000年頃にカノッサ家の所領となったが、長らく自治を続けており、1111年にカノッサ女伯マティルデが自治市政を倒している。マティルデの死後、司教伯ランドルフォの下で自由コムーネへ発展したが、1152年に市からポー河を遡ったフィカローロ市で堤防が決壊してポー河がフェッラーラ市の北方へ流れを変えたため、水運産業は衰微した。
自由コムーネ期はサリングエッラ家及びトレッリ家を代表とするギベッリーニと、アデラルディ家を代表とするグエルフィの内部抗争が続き、アデラルディ家の英雄的騎士グリエルモ三世がその威信を以て抜きん出たが、彼には子供が無く、継承者は弟アデラルドの娘子マルケセッラだけであった。グリエルモは両派の権力の融合を企図して彼女をサリングエッラ家の許嫁としたが、1183年にグリエルモが、1185年にアデラルドが世を去ると、グエルフィ勢力は権力の独占を図って遺言を守らず、新たな指導者としてエステ家のオビッツォ一世を選び、その甥のアッツォ六世の婚約者として六歳のマルケセッラを与えた。 エステ家は九世紀にドイツから移住して来た一族で、フェッラーラ市の北方五十キロ、パードヴァ市の南に御椀状に盛り上がったエウガネイ丘陵の麓のエステ市に居を構え、十一世紀にフェッラーラ市へ本拠を移して市政に参与した。アッツォ六世は1194年にロヴィーゴ市を領有した。アッツォ七世は、1222年にサリングエッラ家が権力を掌握した市から放逐されたが、1240年にヴェネーツィア市の支援によって復僻した。彼は1248年にパルマ市でドイツ皇帝フェデーリコ二世を、1259年にはカッサーノ・ダッダ市でエッツェリーノ・ダ・ロマーノを破ってグエルフィ支配の体制を強化した。1264年にアッツォが逝去すると、アッツォの庶子オビッツォ二世は脅迫された市民の支持によってシニョーレに就き、市政はコムーネ体制からシニョリーア体制へ移行した。1289年にモーデナ市が、1290年にレッジョ市がギベッリーニ勢力に対する防衛のためフェッラーラ市の保護下に入った。オビッツォの子、アッツォ八世の時に一族内部で抗争が発生して体制が不安定化し、フェッラーラ市の形式上の宗主である教皇庁は、ヴェネーツィア市の介入に対処するためロベルト・ダンジョーをシニョーレとしてカタルーニャ軍を駐屯させるが、1317年に司政官ピーノ・デッラ・トーサの横暴に耐え兼ねた市民が蜂起して政権を再びエステ家へ戻した。 1322年に教皇庁から叙任権を得て、1352年にオビッツォ三世が教皇代官の地位を得るとエステ家の支配は堅固なものとなり、ニッコロ三世と彼の三人の子であるレオネッロ、ボルソ、エルコレ一世の四代は優秀な継承者であり、市を政治的経済的に発展させた。ボルソは1452年にモーデナ公及びレッジョ公の位を得た後、1472年に教皇ピウス二世からフェッラーラ公の称号を叙爵されている。彼等は多くの芸術家を集め、フェッラーラ市の文化的水準を高めた。ピサネッロ(ca.1395-1455)、レオン・バッティースタ・アルベルティ(1404-72)、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1415-92)、アンドレーア・マンテーニャ(1431-1506)、コズメ・トゥーラ(ca.1430-95)、マッテーオ・マリーア・ボイアルド(1434-94)、ルドヴィーコ・アリオスト(1474-1533)等が食客として宮廷に詰めていた。エルコレ一世は特に音楽に興味を払い、宮廷礼拝堂歌手にハインリヒ・イザーク(ca.1450-1517)、ヤーコブ・オブレヒト(1450-1505)、ジョスカン・デ・プレ(ca.1440-1521)を迎えた。エルコレ一世の二人の娘子イザベッラとベアトリーチェとは夫々嫁ぎ先のマントヴァ市とミラーノ市の宮廷へ芸術の気風を持ち込んだ。 1492年のロレンツォ・デ・メーディチの死に端を発した五国体制の崩壊以後の混乱期は、エルコレ一世の子アルフォンソ一世の卓越した軍事的外交的能力で切り抜け、続くエルコレ二世とアルフォンソ二世の治政下でも文化水準は衰えなかった。ドッソ・ドッシ(ca.1486-1542)、トルクアート・タッソ(1544-95)、チプリアーノ・デ・ローレ(1515/16-65)、ルッツァースコ・ルッツァースキ(ca.1545-1607)、ジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)等の錚々たる芸術家達が伺候していた。しかし経済的には翳りが見え、また実質的にスペインの植民地となって沈滞の中で安定したイタリアは、嘗ての様に各勢力の分立という状況に於ける小国存続の為の外交的能力は意味を為さなくなっていた。1597年にアルフォンソ二世は一子も得ることなくして逝去し、従弟のチェーザレが公位を継承するが、1567年の勅書によって嫡子無い場合は教皇代官職を取り上げられることが定められており、チェーザレはフェッラーラ市を教皇クレメンス八世アルドブランディーニへ返還してモーデナ市へ退いた。エステ家の文化的事業はモーデナ市へ引き継がれることとなり、その美術コレクションはモーデナ市のガッレーリア・エステンセに収められている。フェッラーラ市が芸術史上に再び現れるのは二〇世紀に入ってからのことで、1917年にジョルジョ・デ・キーリコ、フィリッポ・デ・ピシス、カルロ・カッラ等は当地で形而上絵画運動を提唱した。 |
| ■フレスコバルディ生家 | ||
|
作曲家でオルガン奏者のジローラモ・フレスコバルディ(1583-1643)の生家。宮廷オルガン奏者のルッツァースコ・ルッツァースキに師事し、1608年からローマ市のサン・ピエートロ大聖堂オルガン奏者を務める。ヨハン・ヤーコブ・フローベルガーを教える。 | |
| ■ロメイの家 | ||
|
一五世紀に銀行家ジョヴァンニ・ロメイの居宅として建てられたもので、設計者の名は一説ではピエトロボーノ・ブラサヴォーラと言われている。後に隣のコルプス・ドミニ修道院の所有に移っている。 | |